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ラ・ネージュ山スキー記録集III 


  発行日 1989年12月25日

エルブルーズ                    

ヨーロッパ カフカス                              
                        1986年7月29日〜8月8日 
                         メンバー:西川 克之 他7名 

7月29日 新潟晴 ハバロフスク曇時々雨
 エベレスト無酸素登頂者のS氏がツアーリーダーで参加者7名のヨーロッパ大陸最高峰エルブルーズ登頂ツアーで、スキーを持ってきたのは私だけだった。新潟空港を11時にたち、2時間後ハバロフスクに着くと夏時間で3時だった。出迎えのガイド、ウラジミール氏の日本語は上手だ。インツーリストホテルに泊まり、バスで市内観光した。このようにソ連では外国人は優遇されているのでガイドの目をかすめて勝手な方向へ行ったりしてはいけません。

7月30日 ミン・ブォディ 晴 
 イリューシンで西へ飛ぶ。ハバロフスク11時発、8時間後ミン・ブォディに着くと昼の12時だった。バスでどこまでも続くステップ地帯を走り、ついに山岳地帯に入りようやく4時間でカフカス山中の登山基地アザウのホテルに着く。 
 夕食後ソ連人インストラクターとミーティング。日毎に高度を上げて順化した後、頂上アタックするプランが決まった。私がスキーを使いたいというと’No Problem’、頂上からでもOKという返事だったが、ツアーリーダーのS氏からはスキーは個人的に持ってきたのかといわれた。事前に旅行社にスキーを持っていって自由にしていいと確認していたのだが、S氏はスキーをしない人なので、なにかしらやりにくさを感じたのがやはり悲劇の遠因だったかもしれない。

7月31日 晴 
 シヘリダ氷河へハイキング。バスを待たせているからとインストラクターのイワノフ氏は全員が到着しないうちに走って下山しはじめ下りはマラソンとなった。しかしおりてみるとバスなど影も形もなく、結局、幹線道路まで歩き、路線バスに最初は断られたが、おなさけで乗せてもらいアザウに戻ることができた。

8月1日 晴
 この日からエルブルーズ登山は始まった。 ロープウェイ2本とリフトを乗りついで3800mの氷河上に出た。谷底のアザウと違ってカフカスの高峰が連なる景色はすばらしい。周囲にカフカスの鋭峰がひしめく中でエルブルーズだけは火山性の緩斜面をもつ双耳峰である。日本でいえば北アルプスの上に富士山が噴出したようなものだ。従って下部は急崖だが4000m付近はすそ野にあたり広大で傾斜もほとんどない。1時間半で4200mの11番小屋。アルミ合金張りの大きなカマボコ形の3階建で、各国の登山者でにぎわっている。付近はポールが林立しゲレンデ化している。この日は11番小屋まで往復して日本食を荷上げしてアザウに戻った。

8月2日 晴
 私はこの日からスキーも持ち上げ、一人だけシールで登った。11番小屋に荷物を置いてからさらに上に登る。11小屋を午後4時に出発し2時間でパスツーコフシェルター跡(4800m)まで登って、冷たい風が吹くのですぐ下山し始めた。私がスキーなので、登山期間中は常に同行していたイワノフ氏もこの日だけはスキーを持っていた。11番小屋に泊まり、夕食時軽い頭痛がした。 

8月3日 晴
 9時に小屋を出発してさらに高度をのばした。雲海を見下ろして大斜面の爽快な登り。背後に巨大な図体のドングースオルン(4437m) と カフカス第一の秀峰ウシバ(4710m)とだけが雲上に姿を現わしている。3時間で5000mまで登り下山した。上部は傾斜もあり雪質もよい大斜面で快適。下りはどうしても私だけあっというまにおりてきてしまう。この日はまたアザウまで下りた。 

8月4日 晴
 今日は11番小屋へ入るだけで明日が頂上アタック。午後1時に昼食をとり明日は早いからねろといわれてベッドに入っても眠れるものではない。夕方になると空腹感をおぼえ、やっぱり皆食事をとった。またベッドに入るが、やはり眠れそうにない。

8月5日 晴
 結局全く眠れなかった。しかも夜0時ごろから風がゴウゴウとうなりはじめた。食事の準備のため0時半に起きて外を見ると星がたくさん出ているので風はいずれやむだろうと思った。
 2時15分出発。スキーはシュリンゲでひきずっていく。雪はガチガチに硬い。この靴(バルガライトのベロが硬い旧モデル)はだめだ。まっすぐ足をおくと当たって痛くてたまらない。横向きに足をおいてごまかしつつ登る。
 5時半、待ちに待った夜明けがやってきた。カフカス主脈中央部の山々が浮かびあがり、西の空に影鳥海ならぬ影エルブルーズの三角錐がうつる。東峰の下をトラバースしコルに着く。まだ日陰で風の通り道で寒く休んでもいられない。目前の非常に急な頂上斜面にとりつく。この登りが厳しい。50度近くありそうに見え、雪もまだ硬く氷っている部分も多い。この200mの登りに3ピッチ、2時間を要した。登りつめても頂上部はだだっ広く、一番奥のわずかな盛り上がりが最高点だった。
 全員登頂、ツアー参加者7名とツアーリーダーのS氏とインストラクターのイワノフ氏である。7時間の苦しい登りだった。しかもあの痛い靴でスキーを頂上まで持ち上げたのである。前年登頂した三浦雄一郎氏は4800mにスキーをデポしている。自分でも偉業だと思った。しかし運命は冷酷だった。 
 下山となり、他のメンバーは即歩きだせるが、スキーを持っている私はそうはいかない。最高点は狭く雪も硬いので確保しておいたシュリンゲをはずしたりに時間がかかる。頂上からすべるところを撮ってもらおうとカメラを渡して準備する。その間に他のメンバーはどんどん行ってしまって見えなくなる。足元は不安定でスキーを一本はいてもう一本がはきにくい。待たせていると気にしたうえに「早くしろよ。」と催促されたのが直接のきっかけだった。一瞬手を放してしまった。あっと思った時にはスキーは勢いよく飛びだしていた。見るまに離れていく。しかし幸いにも数十m走って広い頂上の一角に突きささって止まった。助かった。とりあえずとりに行こうとするがインストラクターが許さない。なぜ、いや仕方がない。残った一本を背負って泣く泣く下山する。アイゼンを着けて雪壁を下り大斜面を歩いて下る。うんざりするような長い苦行のような下山だった。
 実にまさにあと一歩の所で大魚を逃したのである。今から考えると、根本的には目標に対して私の経験が不足していたことが悲劇の第一原因だったと思う。初めての海外登山で5000m峰に登り、かつ文字通り重荷をひきずって他のメンバーより負担を大きくしてしまう形だったのだから。またスキーを理解しない人たちへの配慮も必要だったかもしれない。そういう余裕はなかった。それでも実際あと一歩だったのだから少し気をつけてくれればとも思う。準備ができるまで出発を待ってくれるか、スキーをとりに行かせないなら自分でとりに行ってくれるかしてくれれば悲劇は防げた、回復できた。
 あれならむしろガイドなどいない方がいい。登山自体は容易な山なので次の機会があれば楽勝だろうが、自分の好きなように行動できない等の条件もあり次はわからない。また8月3日に5000mまでシール登高とスキー滑降を実現しているのでスキーとしてもかなりのことはしている。

【コースタイム】 
8/2 リフト終点(3800m) 13:30 −> 11番小屋 14:50/16:10 −> 
    パスツーコフシェルター跡 18:10/20 −> 11番小屋 18:50 

8/3 11番小屋 9:00 −> 5000m 12:05/20 −> 11番小屋 
     12:55/13:30 −> リフト終点 14:00 

8/5 11番小屋 2:15 −> コル(5400m) 7:05/20 −> 頂上 9:20
     −> 11番小屋 12:50/13:30 −> リフト終点14:00


エルブルーズ周辺図 

エルブルーズ概念図

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